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北竜湖

小菅の里を歩く

目次

■北信濃三大修験場として名を馳せた小菅の里

小菅神社は、明治時代の神仏分離まで、新義真言宗に属する小菅山元隆寺(こすげざんがんりゅうじ)といい、かつては戸隠や飯綱と並ぶ北信濃の三大修験場として隆盛を誇りました。創建の由来は定かになっていませんが、来由記によると、仏法を広めるのに相応しい地を求めて諸国を巡っていた修験道の祖・役小角(えんのおづの)が小菅山に出合い、白鳳8(680)年に小菅山を開山し、大同年間(806~810年)に坂上田村麻呂がこの地を訪れ、八所権現本宮や加耶吉利堂を再建したほか、修験寺院・小菅山元隆寺を創建。これが小菅神社の起源とされています。小菅権現(摩多羅神)を祀り、さらに熊野、金峰(吉野)、白山、立山、山王、走湯、戸隠の七柱の神々を観請して、八所の宮殿を石窟内に祀ったという記述が残されています。また平安時代後期には、本地垂迹思想が定着し、熊野修験が入り込んで、小菅山の確立に寄与しました。

その後鎌倉時代に入り、南北朝時代の始まりころまでには、小菅一帯は、南朝の高梨氏勢力と北朝の市河氏勢力に接し、南朝党の高梨氏が逆撃を受けて小菅にて惨敗。以後、室町幕府の支配が安定すると共に、小菅山は修験霊場としての隆盛期を迎え、4年の歳月をかけた元隆寺の宮社坊中寺観の再建、奥社内の宮殿の建立や、桐竹鳳凰文透彫奥社脇立二面が制作されています。つまり、室町時代までは小菅山では造営が営々と続けられており、それを可能にするだけの繁栄があったと考えられています。

■戦国時代から近世以降の衰退と再建

戦国時代に入ると、信濃全域が上杉氏と武田氏の争覇の舞台となり、小菅山一帯は、上杉氏の庇護下に置かれました。上杉謙信が武田信玄に合戦を挑んだ際には必勝祈願の願文を捧げましたが、そうした繁栄も、永禄10(1567)年の川中島の戦いまでのこと。この合戦で上杉軍は敗退し、武田氏の軍勢によって元隆寺は兵火に遭い、本堂を除く堂塔はことごとく焼失したとされています。その後、武田氏を滅ぼした織田氏支配の時期を経て、小菅は上杉景勝領となり、情勢が安定すると奥社本殿が再建されました。

江戸時代になると、奥社参道の杉並木や宗教建築の多くが整備され、霊場としての小菅の統治は、領主の庇護下にある寺院の手から里人の手に移りました。祭礼の性格も宗教的なものから、観客(参詣者)に見せることに重きを置いた愉楽的・観光的な性格が加わったものになっていきます。

江戸時代を過ぎ明治になると、神仏分離によって、大聖院別当職が神職に就き、仏式什器を菩提院に移管する一方で、小菅社八所大神となり、明治33(1300)年には小菅神社と改称します。今日の直接的な起源にあたる小菅神社が成立したのです。

■杉並木を抜けて小菅神社奥社へ

■小菅の里に残る歴史的建造物

■小菅神社は縁結びの神!?

歴史ある小菅にはさまざまな言い伝えや里物語が残っていますが、そのひとつが「縁結び」。

ある日、加賀の殿様が小菅神社に参拝に訪れた際、美しい娘に一目惚れし、嫁にもらいました。しばらくすると玉のような子どもを授かり、殿様はたいそう喜んで「これは馬頭観音のお陰である」として、安産の礼に大般若経六百巻を寄贈しました。それ以来、小菅神社は縁結びの神様として、地域の人たちの崇拝を受けるようになり、また小菅神社に参拝すると嫁の口がある、と評判になって、特に女性の参拝者が多くなったそうです。実際に、参道の途中には、弘法大師・空海も歩き、橋を渡ると幸せが叶うという「夢のかよひ橋」や、恋愛成就をかなえるという愛染明王が祀られている「愛染岩」があります。

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